福島第1原発の事故後、「私達は静かに怒りを燃やす東北の鬼です」との福島からの言葉に突き動かされ、12年前、のとじょネットを有志で立ち上げました。能登の地で 子ども達を守りたい、かけがえのない豊かな恵みを手渡してゆきたい・・との想いの皆でした。 

能登半島の中ほどに、志賀原発があります。長い反対運動で 同じ能登の先端にある珠洲原発は建設中止となりました。が、住民をも捻じ曲げるようにして、国や県の介在もあり、建ってしまった志賀原発・・そうして年を経て・・不安に思っていた者達さえ信じられないあまりにも過酷な福島の事故・・その昔、志賀原発に反対して団結小屋へ集まったり、選挙応援をした若い母達も年を重ねて孫を見る年になっていました。

原発という得体のしれないものに 地元では触れることを避け、口をつぐむ中で、本当に必要であるのか、もっと知ってほしいと、講師を招いてのお話会、映画会、コンサートなども続けて来ました。 何よりも過疎の地で地域を潤すといわれる国策に対して、物申すことを避ける中で、のとじょネットは同じ思いでしゃべり合え、一人ではないという元気をもらえる場でした。

小さな半島には いろんなことが押し付けられてきます。廃棄物の処理場も、反対を押し切られ建設されました。そして能登には現在12社・180基あまりの巨大な風力発電所も、尾根すじに立ち並ぶ計画が進行中です。環境に優しいといわれながらも、山を削り、樹々をなぎ倒し、保水力のなくなった山から、川へ土砂が流れ込み、海は、海藻類や魚達が生きられる豊かな海ではなくなってしまいます。事業者優先の国の法に守られ、再生エネルギーと聞こえの良い言葉ですが、ここぞとばかりの利益追求そのものです。先を見ない環境破壊と共に、ゆくゆくは、故障や、処分しきれない残骸が、放置される光景が半島のそこかしこで目にすることを憂い、カンパを募り、チラシを制作して、「もっと知ってください」とポスティング等も皆で行ってきました。 

 

福島第1原発事故後、止まっていた志賀原発は、再稼働の方向に向かっています。 

福島のふるさとを失った方達の血を吐くような叫びも踏みにじる国の動き…なんと国策とは弱い者達のところへ押し寄せるものなのかとの思いは、皆の胸に痛いです。

能登地震が起きたのは1月1日の夕刻・・震度7・・かって経験したことのない大きな揺れに飛び出した目の前で、家が大きく揺れ続け、本棚もタンスも倒れて壊れ、散らばった家の中で子ども達孫達と震えながら、度重なる余震に怯えた不安な一夜。ようやく明けた朝、ヘリコプターの爆音、鳴り響くサイレンに、情報がない中で我が家から10㌔の近くにある原発は大丈夫?と不安は募るばかりでした。

「志賀原発を廃炉に」訴訟では、国に追従し判断を避ける裁判所、北陸電力の言い逃れは、原発直下の断層を、活断層ではないとし再稼働の方向に向かっています。大きく波打ち、揺らいだ能登半島・・4㍍も隆起した原発近くの海岸線、口を開けた道路や傾いた電柱、全壊、半壊の家々の連なり、亡くなられた多くの方々、目を覆いたい光景と不安に震えながらの避難生活・・・余りにも甚大な被害、とてつもない困難を前に言葉を失う思いです。

かって8年間も臨界事故を隠していた北陸電力は、被害もなく安全と発表しましたが、 次々と明らかになってゆく外部電源一部喪失や、変圧器油漏れ、測定器の故障、そうしていまだにどんな故障が起きているかも定かではなく、建設当時より続く隠ぺい体質・危うい綱渡りに、今後大きな余震が起きることの不安も募ります。

抗うことの出来ない自然の力の前に、土砂崩れで道も閉ざされ孤立した集落は半島のあちこちに散らばり、どんな事故につながっていても不思議ではなかったのです。海も空も道も退路を断たれた中で、机上の避難計画など全く用をなさぬ今回の地震でした。どんな避難方法もなく見捨てられることさえありうることを知ってしまいました。

以前、志賀原発の反対闘争の半ば隠されていた歴史を紐解いたことがありました。チェルノブイリの20年ほど前から、突如起きた建設計画に、「海を守り、子ども達の命を守るために・・」と日中の漁師の仕事の後、武骨な手にペンを持ちチラシを書き続けた人達、国や県の圧力に必死で抗った人達の綴った日誌に背筋が震えるような感動を覚えました。

珠洲でも市役所に座り込み阻止を続けた方達‥その歴史の上にあるいのちへの想いを戦った先人達に感謝の思いでいっぱいでした。震源の真上の珠洲原発がもしも建設されていたら…同じく13年間停止していた志賀原発が稼働をしていたら・・逃げ場のない半島で、福島を上回るような過酷事故が起きたであろうと、誰もが震える想いで、恐怖の中でも

よくぞ大惨事を避けられて良かったという思いがよぎります。

これだけの地震が起き、命が奪われてもまだまやかしの豊かさを追いかけようとし、まだ再稼働を求めて行く国の姿勢に、どうして福島の大きな災禍をも、忘れさせようとし、消してしまえるのか、どうしてこの地震国で、深い淵に向かわなければならないのか・・? 得られるだけの豊かさを享受しようとし続け、先を見ない自然破壊が、先人たちがつないで来たもの・・山も、海も、暮らしも、ことごとく損なうことに行き着くのでは‥と不安は募るばかりです 

「能登は優しや、土までも・・」という通り、次々に生まれた4人の子ども達を抱えた世間知らずの若い夫婦を、本当にやさしく包んでくれた能登、玄関にはお米や野菜がいつもそっと置かれていました。住み始めてもう50年近く。「旅の人」と呼ばれていた私達も、いつしかすっかり土地の人間になってしまいました。渡る風、きらめく海、香る山、いつも変わらず包み込んでくれた能登の里山里海。素朴な暮らしを手渡してきた恵みと優しさにあふれていた、いのちの半島・能登

これからの果て遠い日々、あの日々を取り戻せるのだろうか・・と胸が詰まります・・けれど辛抱強く、様々な困難をも耐えてきた能登・・ 素朴な暮らしを繋いで来た能登が、きっと再びいのちを繋いでいってくれることを、誰もが願っています

地震から3ヶ月経ち・・崩れた土砂の中にリュウキンカの黄色い色がまぶしいです。小鳥がさえずり、水仙も咲き始め、今まで全く見えなかった景色が見えてきつつあります。いのちを繋いでゆく生き物たちのひたむきさ、これからもこの光景が子供たちの傍らにあってほしいと願います。かけがえのない命を破壊するものはこれ以上いらない‥

「どうか能登を守ってください・・」と祈るような日々です。