あの能登地震の日から、もう1年になろうとしています。  2024年、1月1日・・・                 初めて経験したとてつもない揺れに、ことごとく倒れ、なだれ落ちた本棚やタンスの中、寒さに震え家族が固まって暖をとった夜が明けて、あたりを揺るがす消防車や救急車のサイレンと赤い点滅、ヘリの爆音が飛び交った日々。湧き水を汲み 川で洗濯をし  ようやく自宅から2㌔ぐらいのところの田鶴浜町の町並みを見た衝撃は忘れられません。軒並み車ごとつぶれた家々、道路に横たわる大きな屋根の数々、まともな家は皆無でした。 そうしてうねる道路の大きな裂けめを越え、能登半島の先端・珠洲市の津波の跡を見た時もまた、一面に続く全壊の家々、無人の音のない空間に、瓦礫の山が積み重なり、道路も、山も崩れ果て・・あまりの光景の衝撃に、言葉を失う思いでした。

どこから手を付けてよいかわからない状況は、いたるところで、放置されたまま、忘れられたかの惨状でした。その中でも季節は移り、苦しみながらも、何とか前を見ようとしていた9月末、観測史上初めての豪雨で、再び押し流された被災の地・・・。ほんの少しでも土に触れ、草をむしる喜びを知る人たちが、故郷へ帰ろうと動き出した矢先に、濁流に家も畑も流され、山はいたるところが崩れ、倒れた木々が川をせき止め、あふれる水の猛威はすさまじいことでした。大量の土につぶされた紙細工のような家々、地震で何とか残ったわずかなものさえ押し流され、埋め尽くされた無念さに、どうして再び起き上がる気力が持てるだろうかと、誰もが、深く沈み込むばかりでした。

行政の処理も遅々として進まず、高齢の方達や、ばらばらになった家族を苦しめるかのような手続きの煩雑さの中、どうしたらよいのか戸惑うばかりの住民達。人手も全く足りず、うずくまり続ける状態の中、次に踏み出す復興の糸口さえ、全く形を成さないままに日は過ぎました。                                                              11月末の深夜、再び大きな揺れが起きました。1月を思い出させる強い揺れ、そうして、今も時折繰り返される余震の数々。これでもか‥とばかり、考えることさえも放棄させてしまうように襲い来るものに、天を仰ぐしかありませんでした。

全く進まなかった解体が、ようやく この1,2ヶ月進み始めています。瓦礫の山となった家並みが、更地となり、全く見知らぬ町並みに変わりつつあります。 ひたすら並んで、申請をようやく終えた人達は、今度は、「ぽっかり消えてしまった家に 体に穴が開いたような寂しさに襲われた」と話されます。「仮の住まいのその先、資力も体力もない中,どう暮らしていけるのだろう‥との不安感・・こころが折れるような日々がつらなるばかりです」と。

先日 県の防災避難訓練がありました。 住民の参加さえなく、形だけのそれに、かえって不安が募ります。断ち切られた道路は、わずかな距離に何時間もかかる大渋滞が続き、全く進まず、身動きの出来ない状態でした。放射能の恐れのある状況で、孤立した集落、連絡のつかない住民にどんな手段があるのでしょうか? ガラスが割れ、戸も、屋根も壊れ、隙間風が吹き込む家で、どうして屋内退避を続けられるのでしょうか・・?  珠洲市にもし原発が建設されていたら、震源地の真上、5㍍近く隆起した大地の上で無事であるはずもなく、志賀原発も、もし動いていたら、主要な電源系統がいくつも破断された中で、半島自体に入り込めない大事故さえあり得るなかで、どうして救い出してもらえるのでしょうか?

避難の方法がことごとく封じられることにも目を塞ぎ、再稼働にがむしゃらに進む国。  これほどまでに、この近年の異常気象や、起こりうる大地震・・複合災害は、もはや人智で及ばぬことをまざまざと知ったにもかかわらず、「安全であることを確認しての再稼働・・」との言葉の薄っぺらさは、断層も、住民の犠牲をも見ないように、だますかのごとくの国の筋書きは あまりにも情けないことです。

この1年は、能登へ・・・ 欲しいものは? 何かできることは? 等々、手を差し伸べてくださる方々、想いを集めてカンパを届けてくださる多くの方達の温かさに、励まされ続けた日々でもありました。 そうしてはじめは全く見えなかった景色の中に、芽吹いてゆく樹々、緑の若葉に、どう受け止めればよいのかと戸惑いつつも、巡ってくれる変わらない大きな力は、重い心へ、顔を上げる励ましを貰えることでもありました。

それは又、放射能に飲み込まれた福島の悲しみを改めて感じることでした。 力付けてくれる自然の力や、恵みさえも奪われた数えきれない人たち・大地・病に震える子ども達・・遥かに長い時間と、かけがえのないものを奪う、消す術のないものに、住む場所も転々とし、選びようのない選択を強いられ、苦しみ続けた年月・・。責任の所在さえごまかし、莫大な喪失をさえ忘れさせようとするはかりごとは、今、能登で避難の術がないことがはっきりとわかってさえ、変わらない愚かさです。いのちを喰らうものを手離そうとしない構造は・・揺れ続ける能登が、同じく小さな列島の上に立ち並ぶものへ発する警鐘も教訓も、ことごとく踏みにじるばかりです。 

数日前から冬本番です。大音響のカミナリ、眼もくらむ稲光、ガラスも割れそうな大粒の霰・・各所で道路の復旧や家の片づけが、凍えながらも続けられていますが・・人手も足りずに、追いつかない現状のまま、もう1年が過ぎようとしています。                                             

畑を耕し、海と共にあり、近隣とつながりながら、素朴になりわいを繋いでいた人たちは、大切なものを皆処分して、見知らぬ場所で大丈夫だろうか?  仕事場を失い、家を失い、家族を亡くした方達は・・・取り残されるような気持ちのまま、寒さに向かう日々へどんなにか心細いだろう・・と重い気持ちがぶり返してきます。 能登には長い時を経ながら、積み重ねてきた伝統や、暮らし・・海や山や・いのちと共にあった素朴な暮らしがありました。過酷な暮らしの中でも、辛抱強く、大きな自然の力に逆らわずに共に生きてきた、その恵みも、熾烈さも知り尽くし、紡いで来た人達の底力がありました。・・ことごとく失われたような全く違った光景の中で、この先どうなってゆくのか、全く見えない大きな不安の中にありながら、それでも能登が好きで、いのちを繋ぐ思いが時を経ながら、乗り越えてくれることを、信じたい多くの人たちがいます。 そうして子ども達を支えてくれるほんとうに大切なものをこそ、身をもって経験している私たちが諦めてはならないと思うのです。いのちの半島・能登・・・かけがえのないふるさと・・・再びきっと・・・と願う日々です。       ・        2024年12月