家へ帰ってきたら、満開だった枝垂桜が舞い散って吹雪のようで、芝の庭は 真っ白の波の模様ができていました。 3日間の不在のあいだに若葉が芽吹き、新緑と花びらの白ににすっかり変わっていました。
今回の福島の旅は 津島裁判の原告団の皆さんが 立ち入り禁止区域の許可を取って案内してくださいました。
満蒙開拓団の引き上げでようやくの事日本にたどり着いた人達が住み始めたところは 福島の津島の山の中でした。作物も生えない荒れた山の中、大きな切り株を起こすところからの開拓は、寒さと飢えと重労働の貧しい生活だったとか。そのなかで、子ども達は学校へ通うために何キロもの道のりの上り下りをもかけ続けて通ったこと、家の仕事をすることが当たり前だったこと、家族で力を合わせなければ生活できなかったこと・・。わら布団で寝た生活の中でようやく成り立って行った暮らしの中で建てた家が、壊れ崩れていました。大家族で囲んだ居間は床が抜け、大きな穴が開いていました。村人たちが守った墓地は、重い墓石が転がったまま手つかずに放置されていました。
中学の後、集団就職で、都会を転々とし、原発労働もしたし、その後関わった養鶏場の長い生活も原発の強制退去で 何万羽の鶏を残したまま、もう帰れなかったことなど、今は避難先で生活を送っておられる運転してくださったお一人が ぽつぽつと話してくださいました。 その当時、金の卵といわれた若くしての就職で 家を助け、広い山の中に点在した地区の皆が団結しながら続けてきた暮らしが、築いたものが・・大きな、どうにもならない力によって奪い去られてしまったのです。酪農にかかわっておられたおひとりは、皆が避難した後も通い続けて、なん十頭もの残された牛の面倒を見続けられたとか・・。今は空っぽの牛舎が、青葉若葉のなかで朽ちようとしていました・・。
防護服をまとい、免許の提示と共にゲートを開け閉めしてもらって、あちらからこちらへと広い津島の山の中を移動し続けました。
山奥のその故郷はため息が出るほどきれいでした。少し遅めの桜が満開でした。 主のいない庭や道筋には、丹精して植えた水仙が風に揺れていました。 無人の小学校・中学校が、桜に囲まれていました。 かって駆ける少年や少女たちがそこにいたのです。目に浮かぶようで、胸が迫りました