ゆきだるま、孫と合作

餅つきの日は雪

裏山の竹で

私たち哲夫と弘子が能登に住みたいな・と思ったのは
最初の赴任先、中島町で 右も左もわからない子育て最中の若夫婦を
地域の方たちが本当に親身になって子育てや、野菜やお米や魚を届けて助けてくださったことでした。
旅の人 と長いあいだ呼ばれ続けていた私たちでしたが
静かな棚田に囲まれた田鶴浜町の田んぼの中に住むようになって
いつの間にか、能登の住人となり、4人の子供たちも無事に育ち、ここを巣立ちました。
田んぼの中の一軒家は 今は亡き建築業の父が 30年前、片道2時間かけて数ヶ月の間通ってくれて、夫を助手に私たちの用意できる範囲で建ち上げてくれたものです。
人の良い父で、人を信じやすく、オイルショックなどで大きな負債を背負いつつのその期間は、どれだけ自身が追われる大変な気持ちだったろうと思うのですが、錆びた軽トラで、能登有料道路の通行料をも節約しながら、コツコツと下道を通い続けてくれたのでした。
近くに住みたいと言ってくれた次女夫婦の家は、出会えた工務店の若い方たち、毎日のように手伝ってくださった近所の皆さん、出来ることはないかーーと声をかけ続けてくれた友人、知人のおかげで、間伐材の暖かさも相まって、本当に温かな優しい家となりました。
2人はこれからこの地域にしっかりと根を張ってゆけそうです。
かかわり続けながら、改めて父のことを思う日々でした。
お父ちゃん、ごめんね  そしてありがとう。
新しい年
今までいっぱいに見守られ、貰い続けてきたものをのひとかけらでも
お返ししててゆきたいなーーと思う年回りになってきました。
どうしたらよいのかわからないのですが
ゆっくりと、出来ること・・考えられる年になりますように。