北海道から 福島から 東京から 名古屋から 全国のいろんな方からご心配をいただきながら 地震から1か月が経ちました。 こんなに、温かなお気持ち、元気の出る薬を少しでもお届けしたいと 食べやすい果物などを箱に詰めて、避難所や 友人たちのところを回っています
日にちはあっという間で、これから、皆が放心状態の後の現実に向かってゆかねばなりません。 能登を守って 2 を綴ってみました
能登を守って 2 (原発のこと等)
「原発近くの放射能値が2倍になっているから、測定を・・」との メールに 気付いたのは18日夜・・ 急ぎ計ってみる。 大きな変化があった。 いつもは40~50の数値が、 80~90の間を行ったり来たり、 背筋が震えた。 頭が真っ白になる。 どうしたらいい? 皆にすぐに知らせるべき? どう知らせたらいい? とにかく逃げるべき? 持ってゆくものは? 犬たちは?
様々に頭をよぎるが 何も手につかず 何も行動もできない‥・とにかく変化を計るしかない・・と暗闇の中、眠れないままに朝5時ごろ・・下がっていた。 他のところも平常値だとの連絡・・ 本当に良かった――――そうしていざという時、不安に押しつぶされるばかりだと改めて実感。 福島の方達の恐怖感を身をもって経験して、何もできない無力感も知った。.
万が一、その事態が起きた時,我が家は原発から10㌔の距離。 5㌔圏内はすぐ避難だけれど、5㌔から30㌔圏内は、自宅で待機、の避難計画の内容・・全壊、半壊でなくとも、ガラスは割れ、戸は外れ、寒風が吹き込んでいる状態の家々。避難場所へさえ、大きな溝や段差のいたるところにある道路に車も人も通ることもできない。 地震のあとの能登半島はずたずたに引き裂かれた状態で、そこで自宅待機とは・・ 海も道路も空も逃げ道を絶たれた時に,机上の空論のような避難計画のもとに、たどり着くのに数日もかかった孤立した場所のお年寄り達を、どんなにして救えるのだろうか。
「能登は優しや、土までも・・」という通り、次々に生まれた4人の子どもを抱えた若い夫婦に本当にやさしく包んでくれた能登の方達の人情。いつも玄関先に積み上げられた山海の恵み・・ 住む場所と決めて40年余り、地元の人に言うと笑われたけれど、能登が大好きだった。 すっかり土地の人間になってしまっても惹きつける魅力は、増すばかりで 様々な悩み事にうつむく気持ちを、何と大きないたわりで包み込んでもらえたことだろう。青い海に、薫る風に、頭上に舞う鳥達、樹々の姿に・・いのちに満ち満ちている小さな半島だった。
「みーんな、おんなじやわいね」・・被害を尋ねても、自分のことより他を気遣う。過疎の地の厳しい生活の中で、恵みを分かち合ってきた素朴な暮らしの人たちは、かって 原発に反対しながらも地域の為と口をつぐまされた歴史がある。「孫、子のいのちを、海を守って‥」と訴え続けた人達のおかげで最悪の事態は何とか逃れられたことさえ見ないままに、廃棄物の処理場への反対も、半島に立ち並ぶ利益のみを追う巨大な風車の計画も、福島を忘れさせようとばかりの再稼働への動きも・・大きな力は有無を言わせないままに押し寄せてくる・・ 「これ以上、能登を踏みつけにしないで―」 との気持ちは募るばかりだったけれども、今回の地震は 完膚なきまでに能登を押しつぶしてしまった気がする。
この、たとえようのない被害の中で果たして立ち直っていけるのか‥? 年を重ねた人達は、果て遠い復興にもひたすら 辛抱を続けるだろう‥。深いあきらめを隠して笑顔を浮かべようとするだろうけれど・・。 本当に大切なものを手渡し、支え続けてきたこの地に もうこれ以上の不安を背負わせないでください。 原発なぞない穏やかな心安らぐ暮らしの日々を取り戻させてください
どうか 能登を守ってください