9月に、10月に、そして11月に、・・・・
今年は父のように思った方たちとの 別れの年だった。
同じ村のヨネさんは、野菜や30キロのお米をどさりと玄関においてくれ続けた
武骨な顔なのに優しい人だった。こつこつとなんでも作る大工さんだった。
友禅を教えてくださった父とも師とも思うゑり華の会長さんは
良い仕事ができると顔中、満面の笑顔で 名もない私を励まし続けてくださったかただった。
職人仕事の大切さを教えていただけた。
そして、おじさん・・・・
40年近く前、夫の赴任先で知り合った校務員だったおじさんは
まだ随分と初々しかった私たち夫婦を自分の子供達のように気にかけてくださった。
能登で生まれた子供たちは、孫のように可愛がってもらったものだった。
隣町に居を定めた時も、天気の良い日には バイクの音も軽やかに訪ねてこられたものだった。
お正月には、4人の子ども達は 祝儀袋に入れた500円玉のお年玉をもらうのが常だった。
病気で、言葉は少し不自由だったけれど、あまりある笑顔と、なんでも作ることが大好きで、
話している時間は、本当に父親のようで、嬉しかった。
活動的だったおじさんとの交友はずーっと続いていたのだけれど、
車椅子で桜を見にこられたのを最後に、ずっと、ベットに寝たきりになられてしまわれた。
今日 祭壇の写真は97歳より少し若かったけれど、優しい笑顔のおじさんのままだった。
誰も知る人とていない能登がこんなに大好きになったのも、
遠いじゃり道の奥でも寂しくなかったのも、
足りないことだらけの私たちを包み込んでくれたかたたちのおかげで、
こうして今、いられること・・・つくづくその得がたさに感謝せずにはいられない
充分頑張られたたおじさんは今、あの ほっぺを真っ赤にした笑顔で
自由に 好きなところをバイクで走り回っておられることだろう・・と思うと、
悲しさの中にも、小さな安堵感がわいて、息がつける気がする・・